歴史を振り返っても、腐敗していたのは都会の高学歴エリートというより、農村部や業界団体です。もちろん官僚は時々スキャンダルを起こしますが、族議員が働きかけた面も大きい。実際に、小泉首相が敵にしたのは郵便局や郵政族でしたし、橋下徹は自民党系の首長の下で既得権を構築した公務員労組や同和団体、教職員組合でした。社会党と近い公務員労組ですが、自民党系首長との癒着関係がありました。
なので日本では、小泉・橋下のように、ポピュリストが反グローバル主義を必ずしも掲げず、新自由主義をまとうケースが少なくないです。伊藤昌亮先生(成蹊大学)も指摘するように、最近では、ポピュリストとされる石丸伸二氏にもそのきらいがあります (『曖昧な弱者の時代』岩波新書、2026年) 。競争を重視するポピュリストというのは、近年欧米でみられるポピュリストとは異なります。去年参政党が台頭しましたが、欧米に遅れて20年、ようやく国際水準のポピュリズムが出てきたというところでしょうか。
ちなみにアジアでは時々こういう新自由主義的なポピュリズムが見られます。フィリピンのドゥテルテ大統領は農村部のいわゆる大地主を敵視しました。東京外国語大学の日下渉先生のご研究を参照していただきたいのですが(『フィリピン』岩波新書、2026年) 、グローバル化社会に適応した都市民が、農村部の地主層に抑圧されているという構図です。ヨーロッパでも昔のポピュリズム政党は新自由主義的で、ハイダーが率いるオーストリアの自由党が典型です。日本はだいたい20年ぐらい後追いしている印象です。
また先ほど、近年の日本ではポピュリズム政党がエリート批判をしているといいましたが、国民民主党は財務省だけでなく、高齢者層も既得権益と見ており、終末期患者の尊厳死を検討すべきだと一時期主張していました。民間労組政党がポピュリズムと「悪魔合体」するとこうなるんだ、という妙な納得感があるのですが、国民民主党が敵視している高齢者は別にエリートではないわけです。
そういう観点でも、ポピュリストの攻撃対象をエリートと狭く定義づけすると、一部のポピュリスティックな政党をポピュリズムと判定できなくなってしまうので、ミュデの定義からエリートを外したほうがいいと個人的には考えています。


