それでも、すべてをスケールすべきなのか
さらに近年のSSIRでは、一段深い問いも投げかけられている。本当に、すべてのソーシャルイノベーションはスケールを目指すべきなのか。
SSIR-Jで公開された「ソーシャルセクターのすべてに、スケールは必要なのか」は、この問いを正面から扱っている。この20年ほど、フィランソロピーや社会イノベーションの世界では、「それはスケールできるのか」という問いが大きな力を持ってきた。助成申請書でも、アクセラレータープログラムでも、戦略文書でも、スケール可能性はしばしば重要な評価軸とされてきた。
たしかに、スケール思考には力がある。より多くの人に届く。効率が上がる。成果を説明しやすくなる。社会課題の大きさを考えれば、スピードと到達範囲を求めるのは自然なことだ。
しかし、その問いが強くなりすぎると、別のものが見えにくくなる。測定しやすいもの。標準化しやすいもの。短期間で説明しやすいもの。そうした実践に光が当たる一方で、時間のかかる関係性、地域に根差した知恵、簡単には複製できない営みが、周辺に追いやられていくことがある。社会は、常にスケール可能なシステムのように動くわけではない。複雑で、関係的で、文脈に依存し、予測不可能なものでもある。だからこそ、すべてを大きく、速く、標準化して広げればよいとは限らない。
問われているのは、スケールが重要かどうかではない。どのような変化にはスケールが必要で、どのような変化には深さや関係性や文脈への適応が必要なのか。その見極めである。
「スケール」という言葉が、現実を見えにくくするとき
もうひとつ、SSIR-Jで公開された「スケールは神話だ。『長い敗北』を引き受けよ」は、さらに挑発的である。
この記事が描くのは、社会起業家や資金提供者が集まる場で、誰もが「スケール」「RCT」「AI」といった言葉を、期待されるように語ってしまう世界である。もちろん、それらの言葉自体が悪いわけではない。問題は、それらがインパクトを生むための道具ではなく、資金や承認を得るための合言葉になってしまうことだ。
これは、ビジネスの世界にも心当たりがあるのではないだろうか。DX、AI、サステナビリティ、ウェルビーイング、人的資本、インパクト。こうした言葉は重要である。しかし、その言葉を使うこと自体が目的になった瞬間、問いは浅くなる。何を変えたいのか。誰にとって意味があるのか。どのような現実の痛みに向き合っているのか。その問いが置き去りにされる。
「スケールする」と語ることは、時に魅力的である。大きなビジョンを示し、資金や人材を惹きつけ、組織に勢いを生む。しかし、社会課題の現実は、もっと時間がかかり、複雑で、簡単には勝利を語れないものでもある。だからこそ、スケールを語るときには、その言葉が現実を見つめるためのものなのか、現実から目をそらすためのものなのかを問い続ける必要がある。


