M-1は近年の漫才ブームの牽引役であり、年々参加者数が増えて今年は史上最高の8540組が参戦。予選の観覧チケットまでもが争奪戦になるほど、多くのお笑いファンの熱狂を生み出している。
今やほとんどの若手漫才師がM-1優勝を目指し、M-1で好成績を残した芸人が“売れる”時代。M-1王者はその年の「笑いの頂点」でもある。そんな、日本で最も有名なお笑い賞レースは、どのように誕生したのか――。
2001年、M-1の立ち上げに奔走したのは、一人の会社員・谷 良一(元吉本興業)だった。11月に著書『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)を上梓した谷に、M-1誕生秘話を聞いた。
「M-1グランプリ2021」で優勝し、一躍大スターとなった錦鯉 / Getty Images
「谷には漫才プロジェクトのリーダーをしてもらう」
2001年初頭、吉本興業の木村政雄常務から呼び出され、こう告げられた。低迷する漫才を再び盛り上げるプロジェクトリーダーに任命されたのだ。
当時の谷は、社内でくすぶっていた。京都大学を卒業後1981年に入社し、一時は横山やすし・西川きよしや間 寛平などのマネージャーを務めるなど王道ルートを歩んでいたが、2000年、43歳のときに制作営業総務室長に就いた。
「この人事は全然おもしろくなかったですね。1日中デスクに座って会議資料をつくったりするばかり。周囲からも、現場を外されたように見られている感じでした」
そんなところへ舞い込んで来た新プロジェクト立ち上げの話。谷は「今より悪くなることはないだろう」と承諾した。
「総務から離れて大好きな漫才にかかわれるのは嬉しかった。でも木村常務から指名されたプロジェクトメンバーは、なんと私ひとりだったんです。漫才を復活させたいと真剣に考えているのなら、ひとりなんてあり得ない」
この頃、80年代初頭の漫才ブームは既に遠のき、劇場の入りは悪かった。テレビの漫才番組は1本もなくなり、コントを演じる若手芸人が多くなっていた。こうした逆風下で、漫才プロジェクトはひっそりと始動した。