これまでに訪れたリンクスの数は100にのぼるという話は初回に書いたが、そのなかで、私が最も好きなコースが、プレストウィック・ゴルフ・クラブだ。
スコットランド西海岸に位置し、1860年、記念すべき第1回の全英オープンが開催されたコースとして知られる。その後、合計24回、全英オープンの舞台となった。私が初めてプレーしたのは2010年夏のことである。
プレストウィックの最大の魅力は、なんといってもその複雑なコース設計だ。
セント・アンドリュースなどのように、海沿いにストレートな9ホールを帯状に配置し、それを往復するというパターンではなく、良質かつバラエティーに富んだホールがループ状に絡み合っており、ホールごとに、ティーショットの方向が変わり、風の影響も目まぐるしく変わる。
5番ホールはヒマラヤと呼ばれる小高い丘がブラインドとなる、山越えショートホール。グリーンは見えず、ホールアウトすると後続プレイヤーに鐘でプレーの終了を知らせる。
ちなみに、その複雑な構造ゆえに、1925年を最後に全英オープンは一度も開催されていない。ギャラリースタンドや放送施設を設置するためのスペースが十分に確保できないからだという。
ここの1番ホールの名前をRailwayという。
文字通り、ティーグラウンド脇には鉄道の駅があり、ホールに沿って右側に鉄道が走り、線路に打ち込むとOB。
そのスリリングなコースレイアウトの魅力はさておき、このホールは、スコットランドのリンクスの歴史をひもとくのに格好のホールだ。
いまでこそ、スコットランドはゴルフ場のメッカだが、もともとはその地理的理由から、ゴルフ後進地だった。
そのスコットランド西側に、優れたゴルフ場が次々と開設される歴史は、鉄道網の発展の歴史と軌を一にする。
1804年、リチャード・トレビシックが発明した蒸気機関車は、1825年、いわゆる鉄道の父、ジョージ・スチーブンソンによって実用化され、ダーリントンとストックトン・オン・ティーズの間を石炭を積んで走った。
1829年には、リバプール、マンチェスター間に乗客を運ぶ鉄路が開通し、イギリスは鉄道輸送の黄金期を迎える。いわゆる「鉄道狂時代」の到来である。
この時期に進んだイギリスの産業革命が、新たな富裕層を生む一方で、鉄道網の発展により、その新富裕層は、海沿いのリゾートやカントリーサイドにも簡単に出かけることができるようになった。
その結果、続々と今に続く名門コースがスコットランドに開設されていくのである。
1886年開設のロイヤルリザム&セントアンズ・ゴルフ・クラブは、地元委員会がセントアンズ駅に近いからゴルフ場の開設を許可した。
セント・アンドリュースも、その後の鉄道開設によって大挙してゴルファーが訪れ、1895年にニューコース、1914年にエデンコースが開設されるなど発展を遂げた。
ウエリントン伯爵の楽しみ
私が今まで訪れたなかで、最も風光明媚なコースは、間違いなくクルーデン・ベイ・ゴルフ・クラブだが、ここも1899年にGreat North of Scotland Railwayの開通と同時に大流行。
同時期にthe palacein sandhillsというあだ名のついた洒脱なピンク色のリゾートホテルも建設された。
残念ながらこのホテルは第二次世界大戦後の窮乏期に廃止されたが、当時の賑わいを示す絵葉書やマッチなどが今でも購入できる。
思えば、日本屈指の名門コース、廣野ゴルフ倶楽部も神戸電鉄と関りが深い。神戸電鉄の前身、神戸有馬電気鉄道の開業が1928年、廣野の開業は1932年である。戦前は倶楽部のメンバーがプレーした後、宴会が出来るようなお座敷列車があったと聞いている。
ここまで書き進むうちに、テレビでもお馴染みの私の友人、デービッド・アトキンソン(小西美術工藝社)が、ゴールドマン・サックスの金融調査室長だった頃、イギリスの自分の家の敷地には鉄道が通っていて、都合のいい所で電車を止めることができると自慢していたのを思い出した。
産業革命の時代、鉄道網を全国的に整備していくための一つの手法として、貴族が持っていた土地を一部使用させてもらう代わりに、好きな場所で乗り降りできるという利便性を与えたのだ。
大変合理的な解決策だと英国好きの私は感心する。プレストウィックに鉄道が通ったのが1840年代。地元の後援者ウエリントン伯爵は、自由自在に乗り降りし、さぞや優雅にゴルフを楽しんだに違いない。
全英オープン誕生の地プレストウィック
スコットランド西海岸の中心都市グラスゴーは、産業革命の進展とともに大英帝国第2の都市と呼ばれるまでに発展した。
グラスコーに住む富裕なゴルファーたちが、クライド湾に沿う広大な土地に目をつけ、1851年に開設したのがプレストウィックだ。60年に第1回全英オープンが開催され、8人のプロゴルファーが参加。12回大会まで同コースで連続開催。