ビジネス

2022.08.31 08:30

【回想録】稲盛和夫が初めてJALにやってきた日 

露原直人

経営判断も然り。書類の知識を頭の中に叩き込むと、知恵という「公式」をつくり上げ、彼はシュレッダーに情報を捨てるのだ。

人財養成も、空と地上では違った。年2回の役員面談で、植木が「明日、きみが入院したら、誰が役員をやる?」と聞くと、当初は「それは社長がお決めになるでしょう」という返事が返ってきた。

「それ、違うやろ」。

空の常識では、機長が気を失った場合まで想定してチームを育成する。それが、仕事の責任なのだ。だから彼は、「いつ何が起きても、自分の代わりを務められる人財を育てておくのが務めだよ」と諭す。

責任と覚悟。植木が使うキーワードである。元機長と稲盛の共通項があるとしたら、そこだろう。

JALの再建を任された稲盛が、初めて会社にやってきた日、稲盛は全役員を前に、「この数字に責任をもっているのは誰だ?」と聞いた。このとき、誰も手を挙げないでいると、「だからダメなんだ!」と雷を落としたという。植木は、「それが当時のJALでした」と振り返る。

「評論家や批評家のような社員はたくさんいるが、当事者意識がない。会社のことを『自分事』として捉え、『自分が会社を支えているんだ』という意識に改革することが第一歩でした。まずは、自分が中心になって、自分で考えてほしい、と」

また、植木は「事業創造戦略部」を設立した。「いまある数字をよくしたいと思うと、どうしてもいまのポジションを守ろうとする。しかし、挑戦していかないと、組織は続かなくなる」と言う。

彼は集めた社員たちに指示した。「10年20年先のメシのタネを探してきてくれ。その代わり、足元はまったく見なくていい」

しばらくすると、「植木さん、見てもらえませんか」と、社長を会議室に呼んで、アイデアを説明したがる社員が出てきた。「全員経営」の浸透なのだが、植木はこう笑う。

「実はいつの間にか稲盛さんが頭で描いた通りのことを僕はやっているのかもしれない。いつも見抜かれていて、少し悔しいですけどね(笑)」


うえき・よしはる◎1952年京都府出身。父親は俳優の片岡千恵蔵。慶應義塾大学法学部を中退し、航空大学校卒。75年に日本航空にパイロットとして入社。94年に機長。2008年にジェイエアに出向後、日本航空の執行役員運航本部長に就任。経営破綻後の12年にJALとしては初のパイロット出身の社長に就任した。

文=藤吉雅春

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