21世紀にもうオリンピックはいらない?

1896年にアテネで第1回が開かれた近代オリンピック(Photo by Henry Guttmann Collection/Hulton Archive/Getty Images)


19世紀末に進んだ富国強兵型の教育や産業育成は、モノづくりのための工業化が必要な時代には有効で、国家レベルの大規模なイベントで大量の人員を動かしインフラを整えることには意味があった。そうした政策を鼓舞し後押しするものとして、平和を謳う世界規模のイベントは有効だったに違いない。

オリンピックという名前だけで巨額な予算が配分され、いろいろな事情で名目や目標が立てられなかった都市整備、産業育成や規制緩和などが一気に進むという効果もあったが、巨額の予算がチェックされないまま、とんでもない使われ方をする結果にもなった。

しかし現在必要なのは、巨大な施設を作って大量に人や物資を移動するすることではなく、国家に代わって、インターネットという国を超えた見えない国家のような規模でつながった都市や地域や個人が幅広く協力して、国家間の戦いではなく、個人や集団がもっと交流して新しい世界秩序を模索することではないか。

国が多額の投資をして作り上げたスーパーマンのようなエリートアスリートが、世界最高のパフォーマンスで金メダルを取って、国民が全員で国歌を熱唱するという構図は、20世紀のマスメディア社会のノリでしかない。

むしろ貧富の差が拡大し、LGBTや心身のハンディーを負った人々が差別されたり、底辺の暮らしを強いられたりするのではなく、一人の世界市民として参加できる大会を考えたらどうだろう。

そう考えるなら、オリンピック大会の添え物のように使われているパラリンピックこそ、まさに21世紀に生きるネット時代の個人を主役にした、誰もが尊重されるという理想に近いものではないか。


Alexandr Zadiraka / Shutterstock.com

1963年に東京オリンピックに向けて、初の日米を衛星で結んだテレビ国際中継実験が行われ、初めてリアルタイムでアメリカとつながった映像から流れたのはケネディ大統領狙撃というショッキングなニュースだったが、おかげで世界は同時に映像でつながるようになった。カラーテレビや家電による生活の向上や、コンピューターを活用したバンキングや予約システムが実用化された。

MAVICAは中途半端な電子カメラだったかもしれないが、それが90年代にデジカメ開発へとつながり、その後のデジタルテレビやインターネットの高速回線の普及で、世界はより広く密につながりあって一体感を持てるようになった。

こうしたデジタル化に裏打ちされた現在の世界では、もっと新しい発想でオリンピックの目指した理想を追求することも可能ではないか。eスポーツばかりでなく、各人が何らかの得意分野で参加して世界の人々と競い合って交流するようなイベントは作れないものだろうか?

民間を巻き込んだ宇宙時代もすぐそこまで来ている。近代の隣国との争いを調整する国際化の時代を超えて、宇宙から地球人としての意識を持ち各人が主役になれるきっかけとなるようなポスト・オリンピックを考えるべきときがいま来ているのではないかと思う。

連載:人々はテレビを必要としないだろう
過去記事はこちら>>

文=服部 桂

タグ:

ForbesBrandVoice

人気記事