日本の教育に足りないもの 大切なのは個性か大勢か

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Cold Spring

以前の記事で、イエール大学の近隣にあるCold Springを紹介したが、この学校では、生徒たちが決めたテーマに沿って、教師陣が教科横断的にカリキュラムを組み、有機的にその年の指導内容を決めていく。当然、コネチカット州のガイドラインによって習得すべき知識や能力に関してある程度の基準は設けられているため、そこから大きくは逸脱しないが、指導方法は非常にユニークであり、集中力が高く好奇心旺盛な生徒たちを惹きつけている。

日本でも、研究開発校や特例指定校といった枠組みがあり、特例として事前に申請をした学校であれば、こうした取り組みが全くできないわけではない。しかし、相当量の申請書類と報告書が義務付けられているのに加えて、年度ごとの申請と審査があるため、走りながら有機的にプログラムを開発する、といったモデルにはあまり向いていない。

個性を伸ばすことが大切だと言われている時代に、時間数や単位数まで、事細かく国が規定する必要が本当にあるのだろうか。

特に、生徒自らが選択をして入学してくる、加えてニーズとかけ離れた教育をやれば破綻するリスクを自ら背負っている私学の教育を、ここまで細かく規定する必要があるのか……現場にいて、考え込んでしまうことも多い。当然、私学助成金をいただいている組織として、最低限満たさねばならない水準はある。しかしそれは、定員充足率や退学率など経営指標で以って測ることも可能ではなかろうか。

3. 「教えられる人」を決めるのは誰か

カリキュラムが多様化し、それぞれの学校で個性的な教育が提供され始めるとき、課題になるのは教えられる人材の確保と、彼らが教壇に立てる資格の取得である。

私たちの学校でも、指導言語が英語であるだけでなく、国際バカロレアのカリキュラムの指導経験が豊富で、かつ徹底的にインタラクティブな授業を通じて多様な価値観を生徒たちから引き出せる教員、を募った時、100倍近い倍率をくぐり抜けて国内の教員が採用される確率は非常に低い。結果的に、大半の教員が外国人である。

彼らは、文科省が設けて長野県が認めてくださった「特別免許」によって教壇に立っているが、この「特別免許」制度は、文科省としては推奨しているものの、都道府県に決定権があるため、実際に積極活用している自治体は決して多くはない。

文科省のウェブサイトに拠れば、全国の小中高校を合計しても、平成元年から平成17年までの間に発行された特別免許の数は184件であり、先般文科省のご担当者に確認したところ、平成30年まで含めても数百件にとどまるという。



私たちの学校では32名の教員のうち、16名の教員が、特別免許や臨時免許など普通免許以外の資格で教壇に立つことを認められているが、こうした比率で特別免許あるいは臨時免許保持者が教壇に立つ例は極めて珍しいと理解している(改めて、長野県教育委員会の柔軟なご対応に心から感謝を申し上げたい)。

折しも、小学校からの英語教育が必須になり、プログラミング教育も取り入れられることになり、教員の再教育、民間との連携などが話題になっている。この機会に、そもそも教壇にたてる人、単位認定をできる人の定義を、どう考えるべきか? 都道府県の裁量に任せるのではなく、中央の判断で抜本的に見直してみてもいいのではないだろうかと思う。

例えば、認可保育園では保育従事者は100%保育士資格を持たなければならないが、認証保育園では60%で良くなった。上述のロジックで行くと、私学の場合は自らの教育の質が低下すれば経営破綻するリスクを負っているので、私学に限って教員免許100%保持という原則そのものを、考え直すというようなことは考えられないだろうか。

以前の記事で、ニューヨークで50年来成績表をつけていないのに、半数以上の卒業生を全米の名門大学へ送り込んでいるSt. Ann’s Schoolを紹介した。同校でも、教員採用の際には、教育学部を修了したか否かよりも、教える内容にどれだけ精通していて情熱を持っているかを重視し、教え方については徹底した採用後のメンタリングでOJTで修得してもらう場合も少なくない、と聞いたことは記憶に新しい。
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文=小林りん

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