『騎士団長殺し』(新潮社)

鳴り物入りで始まったプレミアムフライデーだったが、初回は不発に終わった。なぜ家で過ごす人が多かったのか、本当の理由はわからないが、もしかしたら村上春樹の新作『騎士団長殺し』の発売日とぶつかったことも多少は影響していたかもしれない。

なにしろ初版がいきなり130万部である。書店はどこもたいへんな盛り上がりようだった。おかげでお祭り騒ぎにつられて本を購入、気がつくと徹夜で読みふけっていた。街に繰り出し大いに羽目を外すつもりが、寝不足でフラフラになってしまったが、実に読み応えのある作品だった。

──妻から突然別れを切り出された36歳の画家の「私」は、小田原の山の上にある一軒家を友人から借りて暮らし始める。その家にはもともと、友人の父親で高名な日本画家の雨田具彦が暮らしていたのだが、認知症が進んだため施設に移ることになったのだ。

ある日、「私」は屋根裏で厳重に梱包された絵を発見する。開けてみると、それは「騎士団長殺し」というタイトルがつけられた奇妙な絵だった。

「騎士団長殺し」は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』冒頭のシーンで知られている。騎士団長の美しい娘ドンナ・アンナを誘惑した放蕩者のドン・ジョバンニは、それを見とがめた騎士団長と果し合いになり、刺し殺してしまうのだ。この有名な場面を、雨田具彦は飛鳥時代を舞台に日本画の技法で絵にしていたのである。

秘匿されていた絵の封印を解いて以来、「私」のまわりでは不思議なことが起こり始める。

肖像画を描いて欲しいと突然現れた免色(めんしき)という奇妙な名前の大金持ち。深夜に聴こえてくる鈴の音。封じられていた穴……。そしてなによりも「私」を驚かせるのは、絵の中の「騎士団長」が現実に現れることだ。それはみずからを「イデア」だと称し、絵の騎士団長の姿を借りて現れたのだと言う。この騎士団長に導かれるかたちで、「私」はさらに不思議な体験をすることになる。

さすが村上春樹で、この『騎士団長殺し』もそう簡単に尻尾をつかませてくれない。比喩や謎めいた登場人物が多数登場する村上作品は、ひとつの解釈でくくられることを拒む。つまり読む人の数だけ、解釈が存在するのだ。しかもその読者ときたら、いまや世界中にいるときている。

とはいえ、解読の手がかりがないわけではない。この小説を読み始めてすぐ気がつくのは、「私」が繰り返し「時間」に言及していることだ。

「私は時間を味方につけなくてはならない」

「いったいいつからものごとが悪い方向へ流れていってしまったのだろう?」

「とにかく、どこかで流れが間違った方向に進んでしまったのだ。時間をかける必要がある、と私は思った。ここはひとつ我慢強くならなくてはならない。時間を私の側につけなくてはならない。そうすればきっとまた、正しい流れをつかむことができるはずだ」

「四十歳という年齢は人にとってひとつの分水嶺なのだ。そこを越えたら、人はもう前と同じではいられない。それまでにまだあと四年ある。しかし四年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。そして私は生活のために肖像画を描き続けたことで、既にずいぶん人生の回り道をしてしまった。なんとかもう一度、時間を自分の側につけなくてはならない」

妻に突然別れを告げられた「私」は、なぜそんな事態に陥ってしまったのかがわからない。あてもなく車で東北を旅した後(それは3・11の数年前のことだ)、小田原に落ち着いてからも、「私」はどこで道を間違ってしまったのかとしばしば思いを巡らせる──

そして物語はここから、人生における可能性の考察へと舵を切っていくように読める。

「あとになって振り返ってみると、我々の人生はずいぶん不可思議なものに思える。それは信じがたいほど突飛な偶然と、予測不能な屈曲した展開に満ちている。しかしそれらが実際に持ち上がっている時点では、多くの場合いくら注意深くあたりを見回しても、そこには不思議な要素なんて何ひとつ見当たらないかもしれない。切れ目のない日常の中で、ごく当たり前に起こっているとしか、我々の目には映らないかもしれない。それはあるいは理屈にまるで合っていないかもしれない。しかしものごとが理屈に合っているかどうかなんて、時間が経たなければ本当には見えてこないものだ」

なぜ私はいまの人生を選んだのか。ありえたかもしれない別の未来ではなく、なぜいまの生活、いまの仕事、いまの配偶者を選んだのか。果たしてその岐路は? 変化の潮目はどこにあったのだろう? 

この問いは、私たちが暮らす社会や国家へも拡張することができる。なぜ日本は無謀な戦争へと走ったのか。どうして私たちの社会はこんなにも息苦しくなってしまったのか。なぜいつの間に公然とヘイト的な物言いをする人が増えたのか。

文=首藤 淳哉

 

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