「実は、これ、本当に偶然なんですが」
打ち明けるようにそう切り出したのは、サカナクションの山口一郎である。
本誌表紙(2017年2月号)の撮影でのことだ。撮影の合間に山口は休憩用の椅子を勧められたが、丁重に断り、つま先立ちをした。背伸びをして大勢のスタッフの頭越しに見ていたのは、KDDI社長の田中孝司である。田中は部屋の隅の椅子に座り、インタビューに答えている。その様子を山口が熱心に聞く。
社長の話に関心があるのかと問うと、山口は「日本を代表する経営者の話を直に聞ける機会はめったにありませんからね」と言い、冒頭のように「実は」と、こう続けたのだ。「今日、僕は会社を設立したんです。人生で初めての会社です。やっぱり新しいことを始めるのがいかに大変か、よくわかりましたよ」
株式会社NF。社員数5人。代表は山口本人。
新会社は有名人にありがちなサイドビジネスではない。表現の場をCDとライブにとどめず、生活や街を音でデザインできないか。外国に行くと街に独特のにおいや香りが漂うように、そっけない音に囲まれた人々の生活を少しでも変えられないものか。例えば、身の回りの家電や自動車や店舗に独自の音があれば・・・。
それは音楽業界の枠を超えた新しい取り組みであり、山口はこの日、スタートアップの起業家になったのだ。
新人社長の記念すべき門出の日、2人の経営者とともにビジネス誌に登場することが「まさに偶然」と山口は言う。山口と写真に収まるのが、KDDIの田中、そして宇宙ベンチャーispaceの袴田武史である。業種も規模も違う3人の経営者だが、3人は同じバスに乗り合わせる。
彼らを結びつけたのは、アメリカのグーグルがパートナーとなる月面レースだ。参加するのは、世界各国から16チーム。ispaceの袴田は、チーム「HAKUTO」を組織する。そこにauのKDDI、山口のサカナクションが協力する。しかし、なぜこの3者だったのだろうか。話は2015年暮れに遡る─。
社会が変わる「進化の段差」とは何か?
即断即決で知られる田中のもとに、KDDI社内から壮大な提案が上がってきたのは2015年の暮れのことだった。
田中への説明は、次のような内容である。曰く、米シンギュラリティ大学の創立者ピーター・ディアマンディスの「Xプライズ財団」が、賞金総額3,000万ドルのレースを主催する。場所は月面。レースのパートナーはグーグル。「民間の資本のみで月面にロボットを送り込み、500メートル以上移動させて、映像と画像を撮影し、地球に送信するのが条件」という。
グーグルの「ストリートビュー」を月面からリアルタイムでやるような企画だが、グーグルの真の目的はわからない。ただ、アメリカでは15年11月に宇宙の資源所有を認める法律(SPACE Act of 2015)が成立したばかりだ。法案成立に向けてワシントンではロビー活動が行われ、宇宙資源の開発を目指すベンチャー企業も次々に誕生。イーロン・マスクやジェフ・ベゾスなど、宇宙関連産業に参入する多くはIT事業者だ。つまり、業種の枠を超えて、新しい産業に投資資金が流入しているのだ。
田中は日本からの出場チームが、袴田武史という若者を中心としたHAKUTOだと聞かされた。白い兎から命名されたチームである。KDDIは前身の国際電信電話(KDD)時代の1963年、日本初の衛星通信を実現した歴史をもつ。ケネディ大統領が暗殺された年だ。
「それはいいと思うよ」
田中は、HAKUTOへの通信技術の開発支援とパートナーとして協力することを即決した。そして、技術者出身の経営者らしく、こんな表現で振り返る。
「世間的に見たら、袴田さんたちがやっていることに何の意味があるのかと思うでしょう。でも、その時はわからなくても、後から見えるものがある。それは“段差”なのです」