イギリスのEU離脱の国民投票でこの夏は始まった気がする。日本国内では、7月の参議院選にはじまり、都知事選、生前退位のご意向表明。それから、リオ五輪があって、とかなり忙しい夏だった。そして今、米国は11月の大統領選に向けて、ラストスパートの状況に入りつつある。
そういう風に考えると、僕が2016年夏に今抱くのは、政治の季節、組織の季節(あるいは、より一般化すれば、制度の季節)、だったのではという感慨だ。
経済のファンダメンタルズが、政治とか組織のありようを決めるはず、というのはマルクス以来の社会科学における一つの有力な(あるいはドミナント、と言ってもいい)考え方だ。しかし、どうも逆のダイレクション「政治がむしろ経済を決める」という傾向が最近強まっているのではないか、と改めて考えたくなった。
イギリスのEU離脱が決まった後の金融市場の混乱、そして経済のファンダメンタルズへの悪影響を危惧する評論の数々だけでもその十分な証拠になろう。でも、それは、一つの制度変更の選択にしか過ぎないはずだ。
経済のファンダメンタルズを支えるヒューマン・リソースやキャピタルには何の変化もないのに、大きな混乱を招いた。これを不思議と思う感覚からは逃げてはいけないと思う。
同じようなことが、組織対個人についても言えるのかもしれない。通常は、個々人の能力が高まれば、それら個人の力が集結した組織の力も高まると考えるはずだ。しかし、リオ五輪を振り返れば、それはそうとも言ってられない気になってくる。つまり、組織力というのは必ずしも個々人の能力の単純な集合和ではないようだからだ。
例えば、今回のリオ五輪の日本男子サッカーは決勝トーナメントに進めなかった。十分進めるに値する個々の能力はあった気がするのに、だ。
組織の能力をいう場合、英語ではabilityではなくcapabilityという単語を使う場合が多い。組織力(organization’s capabilities)を、例えばクリステンセンは、三つのカテゴリーで捉えようとする。