安南(アンナン)国王阮福源の娘、王加久(オウカク)。南海貿易に従事する日本の商人、荒木宗太郎に嫁すため、はるか波濤を越えてこの東端の異国に到着したのであった。元和5年(1619年)の出来事だ。
当時、公認の朱印船を中心にした日本の貿易船は、フィリピンはもちろん、ベトナム、タイ、カンボジアからマレー半島、さらにはインドネシアにまで出向いていた。オランダ東インド会社との熾烈な商戦を繰り広げてもいた。荒木宗太郎のように、相手国の首長の深い信任を得て、その息女を妻に娶るものも少なくなかったようだ。
荒木たちが縦横無尽に活躍していた地域を、今日、ASEAN諸国と呼ぶ。世界の中でも今後の成長と発展が期待される国々である。
昨今は、原油などの一次産品の値下がりと中国経済の先行き不安でASEAN諸国の経済にも停滞感が見られる。米国の金融政策の影響も大きい。インドネシアのように投資と消費が冴えず、インフラ投資が待望される国やタイ、マレーシアのように政情不安が経済に影を落としている国もある。ベトナムも不良債権処理と国営企業の構造改革という大きな課題を抱えている。フィリピンが比較的好調だが、ラオス、カンボジアはもう一段、二段の発展が欲しい。「最後のフロンティア」ミャンマーへの視線が熱くなるわけだが、この国も金融システム・インフラ整備や対外赤字、為替、インフレなどの難題が待ち受けている。
だが、ASEANが地球経済の成長ドライバーであることに変わりはない。国際機関の予測でも、先進国が2%程度の成長見込みなのに対してASEANはその2倍以上、5%ほどである。この地域の人口は7億人に迫り、中国とインドの大市場に接している。恐らく日本にとって今後、経済でも外交でも最も重要な地域がASEANである。中国が一帯一路の直截でやや強引な経済戦略を展開するなかで、日本のじっくりと温和なスタンスが長期的には奏功すると思う。
10余年前のバンコク国際空港。春節の里帰りでごった返す人群れのなかに、リュックサックを背負った長身の日本人のスーツ姿があった。財務省の課長だった。彼はASEANに安定した金融システムを構築するためのアジア債券市場構想の実現に、日本政府の意を受けて奔走していたのである。その努力は現在、マルチの通貨スワップ協定や広範な債券発行システムの実現など多くの成果を生み出している。
ASEANは近年とみに域内協力の紐帯を強化している。特に経済面でその色彩が濃厚だ。域内貿易の比率が増し、経済統合への機運が次第に具体的な成果を生みつつある。2015年末には、その象徴ともいえるASEAN経済共同体がスタートする。域内各国の経済格差はいまだに大きく、欧州のような通貨統合にはまだ相当の年月を要する。それでも、北米、欧州、中国、東アジアなどと並ぶ大経済圏になることは間違いない。
この秋、日本と米国など12カ国は環太平洋経済連携協定(TPP)に合意した。経済連携で後れを取っていたわが国が一挙に歩を進めたものと評価できる。アジア太平洋で中国が急速にプレゼンスを強めているが、TPPが発効すればもはや日本は「太平洋ひとりぼっち」ではないのだ。さらに今後大きなカギを握るのが東アジア地域包括的経済連携(RCEP)である。16カ国からなるRCEPには日本も中国・韓国もメンバーとなっている。日中韓の冷え切った関係がようやく改善の兆しを見せ始めた昨今だが、TPPとRCEP両者のメンバーになっているのは日本だけだ。ASEANにおけるよい意味でのリーダーシップをとる絶好のチャンスだと思う。
王加久が長崎に嫁いだ2年後の元和7年。同じ長崎湾にアユタヤの使節船が姿を現した。使節が持参し、江戸の金地院崇伝が読んだ書状には山田長政と署名されていた。当時、アユタヤの日本人町には3,000人以上の邦人が生活していたと伝えられるし、安南、交趾(コーチ) 、柬埔寨(カンボジア) 、太泥(パタニ)、呂宋(ルソン)など東南アジア全域に広く日本人が起居していた。
けれどもこの進取の時代はあえなく終わる。鎖国令だ。王加久は二度と故国の土を踏むことがなかった。400年を経てじっくり考えるべき史実ではないか。
川村雄介◎1953年、神奈川県生まれ。大和証券入社、シンジケート部長などを経て長崎大学経済学部教授に。現職は大和総研副理事長。クールジャパン機構社外取締役を兼務。政府審議会委員も多数兼任。『最新証券市場』など著書多数。