学生アスリートの権利行使、変化を余儀なくされる米カレッジスポーツ界

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アップデート(2015年11月9日 午前11:30):ミズーリ大学のティム・ウルフ学長が辞任したとの報道があった。

カレッジスポーツ界で鳴り響いた爆発の音は、フットボールでアラバマ大学がルイジアナ州立大学(LSU)を倒した音でもなければ、カレッジバスケットボールのシーズンが開幕した音でもない。それは、学生アスリートによる権利運動が急激に勢いを増し、彼らの確固たる権力が証明された音だ。

今週末、ミズーリ大学のアメリカンフットボール部とその他の運動部に所属する黒人学生らが、同校のティム・ウルフ学長が辞任するまで部活動を一切行わないと宣言した。学生らが、憲法上の権利を行使し、不当に感じている物事に対する抗議ストを起こしたのだ。全ての公立大学生へ正当な権利として認められている市民的不服従は、学生アスリートである彼らにももちろん認められている。本来、学生(“学生アスリート”も建前上は学生である)には、自由を行使する権利がある。そして、学生らの言うミズーリ大学コロンビア校内での“人種差別文化とそれに対する無神経さ”が、彼らの行動をエスカレートさせたのだ。

抗議の理由についてはあえて触れるつもりはない。しかし、ミズーリ大学のキャンパス内における何らかの問題が深刻化し、今その対応が迫られているのは明確である。今回は、学生アスリートらが、抗議ストを行うことを発表して以降の劇的な状況の変化に焦点を絞りたいと思う。ある生徒は、ハンスト(ハンガー・ストライキ)に乗り出した。そして他の複数の学生は、抗議活動を行っていた。

実はこれらの抗議活動は、以前から、我々が週末にテレビなどでカレッジスポーツのライブ中継を楽しんでいた間にもコロンビア校外で行われていた。しかし、フットボールアスリートらが、この問題に対する不満を募らせ、状況が是正されるまで部活動に参加しないと公表した途端に、みんなが注目するようになったのだ。

今回のミズーリ大学の学生アスリートらは、学生アスリートの権利運動が拡大し、繁栄し続けるべきである良い例だといえる。このような状況こそ、学生アスリートらが、協議を求め、変化を推進できる自らの権力を自覚できるチャンスであり、個人的には彼らの健闘を祈りたい。そして、これからも自分たちの地位をうまく利用して、カレッジスポーツ界での教育格差や搾取、監督の過剰なまでの支配力や超過密スケジュールのような問題についても抗議し、変化をもたらしていって欲しいと願う。今回の変化は、すぐに起こるのではないかと私は予測している。大学の運動競技を運営している大人達の惰性に改善の兆しが見られないからだ。しかし、もし学生アスリートらが抵抗するようなことになれば、その変化は、インディアナポリスからコネチカット州のブリストルにある全ての大学キャンパスにまでも影響を与えることになるだろう。

今回の出来事は、急速に進行しており、この記事が公開される頃には、既にウルフ学長が辞任し、ストライキも終わっている可能性がある。なぜなら、彼には他の選択が残されておらず、既にその詳細も詰められているような気がする。ミゾー(ミズーリ大学コロンビア校の通称)にとって、どこにでもいそうな年寄り学長よりもフットボールチームの方が権力を持っていると推測する。また、このような結果が予想されると同時に、学生アスリートの立場の象徴化についても軽視されるべきではない。カレッジスポーツは、よく大学のフロントポーチ(玄関先)であると言われている。大学は、理論上その最も明確で大きな「窓」であるスポーツ局を通して見られており、スポーツ局の成功こそが、学業を含めた大学の全分野に利益をもたらすからだ。この理論については、かなり議論の余地があり、また研究によってたびたび反証されることがある。しかし、多くの大学機関はスポーツでの評判によって生きるか死ぬかの状況に陥ることもあるのだ。また、大学内の他の分野には必要な資源や手間がかけられていないのも事実である。

フロントポーチ理論は、チームの勝利、最高のアスリートのスカウト、彼らをベストの状態に保つための惜しまない努力、そして収益の確保が前提となる。もちろん、アスリートの管理も含まれる。アスリートらに行儀よくさせ、表向きには目標を最大限に高めるためとして彼らの一挙一動を管理することで、大学全体がその恩恵を受けるのだ。

フロントポーチ理論が、誤った理屈に基づいている可能性がある一方で、カレッジスポーツは、多くの大学でとても人気であり、特にサウスイースタン・カンファレンス(米大学スポーツ・カンファレンスのひとつ)の一校であるミズーリ大学では、極めて人気が高い。学生アスリートらはセレブのような扱いを受け、監督らは州内で最も高い年収を得ている。大学は、マーケティングツールや大学を挙げての振興活動としてもカレッジスポーツに重きを置いている。しかし、それらもアスリートの協力があれば上手くいくかもしれないが、これからはそうもいかなそうだ。

別に驚くようなことではない


このように我々は、いつも学生アスリートを利用している。監督に必要以上の給料を支払い、無駄な施設を建て、デッド・ファンドを使い続け、法外な学費を請求することで、この「企業」に資金をつぎ込んでいる。

学生アスリートらは、我々にとっても大切な存在なのだから、抗議活動の広報活動と必要な大学側に圧力をかけるために、大学内で有名人である学生アスリートに抗議に参加してくれるように話を持ちかけるのは当たり前である。

我々が自ら、スポーツを大学でもっとも重要なものとしてきたわけであり、いつもそのように言っている。学生アスリートに、キャンペーンの広報に力添えしてくれるように頼まない手はない。これは実に賢く、また必要な手段である上に、コロンビア校に非常に大きなインパクトを与えている。学生アスリートたちは、自分たち力にまだ気がついていない。彼らが「~(の問題を解決)をしてくれるまで、試合に出ない」と言うだけで、これからのカレッジスポーツの不平等さなどの問題を変えていくことができるのだ。CBSテレビも、マーチ・マドネス(全米大学協議会のバスケットボール・トーナメント)の放送に支障が出るとなったら、全力を尽くして

問題解決の手助けをするに違いない。

ミズーリ大学スポーツ局フットボール部の監督であるゲイリー・ピンケルやマーク・ローズスポーツ局長の反応を見ればわかる。練習に来なければ奨学金を取り消す等とは言わなかった。ランニングのペナルティや試合の出場時間を減らすなどといった数年前までは当たり前に耳にしていた脅し文句もまったく聞かれなかった。

何と、ローズとピッケルは、アスリートらの努力を全面的にサポートすることを約束したのだ。もちろん、彼らには他に選択肢がない。ローズやピッケルが、アスリートらに対して「これ以上抗議を続けたら“学術賞”を失うことになるぞ」と言ったら、どうなるだろうか?アスリートらが、自分たちのアメリカ市民としての憲法上の権利を行使することに対して罰を与えたとしたら、彼らは世間にどのように思われるだろうか?その後、奨学金を出すと言ったところで、そして仮にアスリートがそのオファーを受入れ“雇われる”ことになったとしても、その事実が消えることはない。ミズーリ大学の広報活動や法律上の副産物は壊滅的なものとなるだろう。仮に本意でなかったにせよ、今回のローズとピンケルの姿勢を称賛したいと思う。

ミズーリ大学の生徒の誰一人として今回の抗議に対する脅しや報復を受けていない。もちろん、学資援助を打ち切られた生徒もいない。今日もインターネット上には、アスリートらを支援する多くのサポーターがいるが、中傷も少なくない。アスリートらを無理矢理試合に出させて、また今回のことへの戒めとして奨学金の取り消しや、試合の出場時間の削減を行うべきだと言う者もいる。

フロントポーチを作ってくれているアスリートたちを自分の子分でもあるかのように支配したいだけで、後はまったく手を貸そうとしないような者たちだ。24時間ニュースやソーシャルメディアがある今の時代、「見せかけ」だけはもう通用でしない。誰もが意見を述べることを許されている中、どんな形であってもアスリートに報復することは間違っており、違法にすら思える。もし彼らが本当に単なる学生であり、学生アスリートとして“雇用”されている立場でないとしたら、彼らには平和的な市民的不服従の権利を行使し、自ら抗議する権利があるのだ。

多くの人々が、アスリートらをコントロールして、自由にエンターテイメントを楽しめることを切望しているだろう。スポーツ奨学金とは、チームに人生を捧げるという意味であって欲しいと心から信じているに違いない。しかし、そんな時代はもう終わったのだ。NCAA(全米大学協議会)は、一刻も早くそれに気がつくべきだ。数年前のアマチュアスポーツ法のように、カレッジスポーツの支配構造におけるアスリートと元アスリートの地位は高められるべきであり、アスリートの声に耳を傾けるべきだ。なぜなら、彼らの声こそが、もっとも強力で重要だからだ。彼らは今、反撃に出ている。ミズーリ大学も、学長も数百万ドル稼ぐ監督も、スポーツ局長ですらアスリートらの声を抑制する力を持っていない。アスリートこそが、我々が注目すべき者たちであり、また彼らこそが必要な変化をもたらしてくれるだろう。
NCAAよ、ちゃんと聞いているのか?ミズーリ大学は、確実に私の話を聞いていると、私は断言する。

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